冬の日の思い出
上石神井校|2011年12月1日
冬ですねえ。
受験シーズンです。
受験。
このブログを読んでいる子で、受験生は、どのくらいいるのでしょうか。
きっと、毎日毎日、ほんとに大変だと思います。
がんばっても、がんばれなくても、大変なのが受験です。
ちょっと、受験の思い出を語ってもいいですか。
大学受験、僕は2浪しました。
1年目は、願書を2つ申し込んで1つしか受けずに、だめでした。
2年目は、願書を7つ申し込んで、全部だめでした。
3年目で、やっと合格をつかみました。
1年目、何が起こったのかというと、壊滅的に全教科だめだった僕は、英語以外すべて捨てたのです。
そして、英語と国語だけで受験できる大学を申し込んだのです。
別にそこが行きたかったわけではなく、ただ「2教科しかできない」という理由で申し込んだ学校でしたから、
なんだか嫌になって、一つは直前になって受けるのをやめました。
受験したもう一つの学校は、早稲田の第一文学部。記念受験に近い。英語だって、特に勉強していたわけではありませんでしたから、当然、だめでした。
つまり、高校3年生の冬の段階で、半ば浪人するつもりだったのです。
でも、甘かった。
苦しいだろうなって思うことは、実際経験すると、10倍苦しいのが人生です。
予備校の寮に住むことになったのですが、毎日朝から晩まで受験勉強です。
もともと、毎日の2時間の勉強すらできなくて浪人したんですから、そんな生活、耐えられるはずがなかった。
毎日、寮を抜け出して遊び歩きました。
ちっとも楽しくありません。
そりゃ、そうです。
もうぼろぼろの親のすねを、限界までかじって入れてもらってる塾です。
そこを、さぼって、遊ぶ。
昼はゲームセンター。夜はカードゲーム。
遊んでいたのだけれど、拷問のような時間でした。
それでも、遊び続けました。
今思えば、「現役合格できなかった」という現実から、いつまでもいつまでも逃げ続けていたのでしょう。
「浪人した」という現実を、受け入れる強さがなかった。
だから、全然遊びたくなんかないのに、現実逃避で遊んで、そして、7つの受験校すべて不合格になったのです。
そして、2浪目。
家にも寮にもいられなくなった僕は、名古屋に行って住み込みで新聞配達をやりました。
2Kの部屋に、30歳ぐらいの人と、同居です。
朝4時に起きてチラシを折り込み、朝刊を配って、3時には夕刊を配ります。
コースを覚えるまでは、昼間に「からまわり」という、エアー新聞配達をしていました。
高校生と、すれ違う。
大学生と、すれ違う。
もともと、新聞配達をしはじめたのも、ある種のかっこつけで、
ただ、親に迷惑をかけたくなかっただけです。
だから、「2浪」という現実も、受け入れられては、いませんでした。
朝4時に、起きる。
新聞を、配る。
家に帰ると、まだひどく寒い(4月は、寒いんです)。
暖房器具は、ない。
ふとんに入る。ふとんしか、部屋にない。
すぐ隣、ふすま一枚隔てた場所から、おっさんの生活音が聞こえる。
そのまま、眠る。
夕方、起きて、夕刊を配る。
銭湯に行く。帰りたくなくて、公園に座る。
友達に、電話する。「おー。今、アオガクと合コンしてるんだー」なんて声を聞く。
そんな日々。
朝刊を、配る。
夕刊を、配る。
高校生と、すれ違う。
大学生と、すれ違う。
ついに、ぱちんと、何かが、はじけました。
具体的に言うと、目が、開かなくなりました。
もちろん、精神的なもので、何時間も泣き続けたら、開いたんですけど、
でも、数時間の間、僕の意志とは無関係に、目が、開かなかったのです。
路上で。
突然、目が閉じて、開かなくなる。
涙が止まらない。軽くパニック。
そして、そのときにやっと、はじめて、色んなことが、受け入れられたのです。
すぐに新聞配達をやめて、家に帰って、毎日、ただ、ぼーっと過ごしました。
そして、少しずつ、少しずつ元気になっていって、そして、10月。
ついに、受験勉強を、はじめたのです。
今思えば、僕にとっての、「はじめての」受験勉強でした。
毎日、図書館に行って、5時まで勉強して、家に帰って、遅くまで勉強しました。
ひとりっきりの受験勉強でしたけど、何も迷わず、高校時代の参考書を、一つずつ、クリアしていきました。
そして、3年目の受験は、7つ受験して、7つとも合格しました。
受験生のみんなは、「がんばれ」なんて言葉は聞き飽きているだろうし、
いろんなプレッシャーを感じていると思う。
うん、うん。
そのプレッシャー、わかるよ。
俺、それ、3回味わったから(笑)
毎日、祈るよ。
なんか、いつも、うまい言葉かけてあげられなくて、ごめんね。
受かれー受かれー。
受かれー受かれー受かれー。
上石神井校 校舎長 林 克洋