勉強をする理由
上石神井校|2012年8月11日
こんにちは!
今日は、帰り際、ある中学生が
「12時間は居ましたよ(-“-)」
と言っていました。すばらしいですね!
さて、そんながんばるみんなを見ていて、誇らしく思うと同時に、
ふと、自分の学生時代の「悩み」を思い出しました。
ちょっとその話をしていいですか。
自分は、学生時代に「なぜ勉強をしなくてはいけないのか」と思っていました。
なぜ、因数分解なぞ学ばねばならんのだ。
なぜ、古代ローマの歴史なぞ学ばねばならんのだ。
(@_@。
そんな風に思っていました。
なんていうか、それは純粋な疑問とかではなくて・・・、こういう問いかけに対して、納得のいく答えを用意しない大人に対して、いつも憤っていた気がします。
まあ、そんなひねくれた子供だったのです(笑)。
でも、そんなひねくれた少年に対し、納得のいく答えを提示した大人が、現れました。
高校2年生の頃でした。
その大人の名前は、太宰治。
彼は、その小説の中の登場人物である先生に、こんな言葉を言わせます。
「もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。
勉強というものは、いいものだ。
代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、
もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。
植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。
日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。
覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。
カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、
心を広く持つという事なんだ。
つまり、愛するという事を知る事だ。
学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。
けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。
これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。
ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!」
いかがですか。カルチベートとかの意味はわかりませんでしたが、当時の僕は、なんだかものすごーく納得したのです。
もちろん、部分部分は暴論です。
でも、この「一掴みの砂金」という表現が、その時ズバッと、僕の心の奥深くに突き刺さって、
よくわからないままに、「そうだ。それを大事にしていこう」と思ったものです。
やっぱり、偉大な文豪の言葉って、すごいですねえ。
というわけで。
勉強しなければいかん。
上石神井校 校舎長 林克洋